2012年5月 5日 (土)

廃線跡歩記…その十八 「国鉄宮原線橋梁群」第7章廣平橋梁

第7章 廣平橋梁

 廣平橋梁は、唯一車両の通行が許可されて公道として使用されている橋梁である。と言っても農道みたいな使い方ではあるが。廣平橋梁は、橋長80.3m、幅員3.2m、径間長7mの9連アーチ橋で、北里川の支流である“はげの川”に架かっている。幸野川橋梁の径間長が一部20mであることを除いて他が10mであるのに対し、廣平橋梁は7mと短く、この辺が強度的に車両通行が可能となっている要因かもしれない。桁数も菅迫橋梁の11連に次いで多い9連であり、自由に見れる連続アーチ橋梁の醍醐味を楽しめる。

 廣平橋梁を探すには、旧国道からの方がてっとり早いのだが、あえて戸井口から明野を経て岳湯に向かい、“はげの川”の上流から下流に向って下りながら探すことにした。岳湯から中尾への道を、川の流れを左手に確認しながら走り続けた。中尾集落に入ると、旧国道への案内標識があり、そのまま進めば橋梁から遠ざかってしまう。

 目印は、「ニコットファーム」の看板ということだったが、その看板が見つからない。竹林の切れ目に左に入る小路を見つけ、一か八か入ってみる。山裾を右に回りながら進むと、ニコットファームの特徴的な建物が目に入る。変形二階建ての木造建築で、外壁は朱色に塗られている。ネットの写真の通りだ。間違いない。ここだ、ここだ。営業しているかどうか不明だが、その日は平日にも関わらず、人の気配が感じられない。休みなのか、閉鎖されているのか。

 庭先に回ると、眼下の谷間に廣平橋梁が見えた。少し右にカーブした橋梁で、ガードレールが見える。ここが、他の橋梁と違う所。廣平橋梁の北里方向には、直ぐにトンネルがあり、高台から見てもトンネルの入口が杉木立の中に見える。路盤跡は、車の轍の跡がはっきりと印されており、農道としての役目をしっかりと果たしているようだ。高台からは、麻生釣側も見えるが、先の方は杉林に隠れて見えない。橋長は菅迫橋梁に次ぐ長さだが、径間長が7mと短い為、あまり大きなアーチ橋とは感じられない。

 廣平橋梁は、歩くことが出来るのではあったが、その日は菅迫橋梁を探すのに時間を費やしたので、次の機会に譲ることにした。これで、7つの橋梁を全て見ることが出来た。宮原線は、大分県と熊本県に跨る路線であったが、アーチ橋梁は熊本県内にしかない。

 一説によると、鉄筋ではなく「竹筋」が使われているとのことだが、明確ではない。同じ構造の橋梁が長崎県にもあるらしい。山間部の路線だけに、トンネルも多く、トンネルはほとんど残っているらしい。一部は、道路として拡張され、当時のトンネルが存在していない箇所もあるが、公道として活用されたり、醸造会社の保管場所となっている所もある。しかし、そのほとんどは放置されている。又、駅跡が明確に存在している所は3箇所だけであり、後はほとんどが自然回帰している。

 これで第1部は終了。第2部は、宮原線の全線踏破だ。熊本県側だけでなく、大分県側も網羅したい。どうも、大分県側の方が、色々と変貌しているようだ。第1部でも、大分県側の麻生釣駅跡やいくつかのトンネルを探訪したが、その記事は第2部で披露したい。都会地の廃線跡は、あっという間に姿を変えてしまうが、それはそれで楽しみ方がある。宮原線の様な山間部の廃線跡は、そのまま残っている度合いが高い。見に行くなら、今の内だ。

2012年4月29日 (日)

廃線跡歩記…その十七 「国鉄宮原線橋梁群」第6章菅迫橋梁

第6章 菅迫橋梁

 菅迫橋梁は、宮原線橋梁群の中で最長で最高を誇る橋梁である。橋長は136.3mで、幅員3m、径間長10mの11連アーチで、高さは最っとも高い所で23mもある。しかし残念ながら、この橋梁の全長を見ることどころか、アーチ一つさえ見ることが出来ない。運行時は、山腹の谷を渡る橋梁であったが、現在は杉や竹に囲まれて橋そのものを見ることが出来なくなっているのだ。

 菅迫橋梁は、肥後小国駅から北里駅を経て、堂山橋梁、汐井川橋梁、堀田橋梁と渡り、次に猿渡トンネルを潜った後に谷間を渡る橋梁として建設された。11連という長大なアーチの連続は、当時の写真を見ると、その壮大さがはっきりと確認出来る。他の橋梁が、景観として又実用面でも活用されているにも関わらず、何故菅迫橋梁だけが日の目を見ないのか?確かに、菅迫橋梁は、他の橋梁と異なって近くに道路が当時から無く、集落からも離れていたことから、時間の経過と共に自然の驚異に閉ざされた世界に押し込まれたのかもしれない。当時の技術の粋を活かした建造物が、杉と竹しか友達がいないのは寂しい限りである。

 幸野川橋梁、北里橋梁、堂山橋梁、汐井川橋梁、堀田橋梁と、そう苦労もせずに見つけ、身近に迫り、写真も撮ることが出来たが、菅迫橋梁だけは、その所在が全く分からなかった。最初の探訪時は、戸井口集落から所尾野を通って西里の方に行ってしまい、全く関係の無い方面を探しまくってしまった。近くに行けば見えるものとの思い込みが、失敗の原因であった。ネットでも分かりにくいとは書いてあったその探訪から数年が経過して環境も変化し、より分かりにくくなっているとは思わなかった。

 次の機会では、事前に当時の写真と航空写真と国土地理院の二万五千分の一の地図を綿密に重ね合わせ、戸井口集落から菅迫集落の方に南下して探すことにした。戸井口集落からの道を国道を越えてすぐに左折して、林道を下っていく。菅迫集落の方に進むと丁度道路の拡幅工事中で、狭い林道から新しい広い道路に移行する箇所に出くわした。そこから一度は打越集落の方に行ってしまい何も発見出来ず、先程の工事中の箇所に戻ってきた。車を停めて、しばらく周囲の雑木林を眺めていると、川向こうの山腹になにやら同じ高さの土手みたいなものが見えたではないか。堂山橋梁と汐井川橋梁を遠くから眺めた時に感じた直線が何かの意思を持って存在しているのと全く同じ感覚であった。鉄道マニアに分かるある種の道路の曲線が、昔鉄道が走っていたレールの跡と理解出来ることと同様に、山腹に雑木や雑草が生い茂っていても、それと分かる路盤跡。逸る心を抑えつつ、川を渡り法面を登って、その土手状の上に出た。

 まさしく、それは路盤跡であった。小国方面から来ると右にカーブしている路盤跡であった。地図上からすると、南方向に菅迫橋梁があるはずである。法面を登ってきた方向から右に向って進み出す。段々と雑草から雑木に変わっていき、歩くのも困難となってきたが、30mも行かない内にトンネルの入口に着いた。菅迫トンネルである。

 入り口は、当然のことながら封鎖されていたが、やはり隙間があって入ることは出来た。懐中電灯の用意をしていなかったが、多分中は平坦であろうと微かな壁の存在を頼りに歩きだした。確かに中は平坦で危険は無かったが、出口が見え始めると、危険は出口の先にあるようであった。見え出したトンネルの出口にも柵があるのだが、それ以上に行く手を遮っているのは折れた竹であった。まるで、大学紛争真っ只中の封鎖中の校門を思い出させるバリケードである。トンネルを出ると、左右は法面でであり、路盤跡は雑草が密集し、左右からは倒木や折れた竹が幾重にも重なって、簡単には進めない。100m進むのに、1時間以上掛かってしまった。途中、路盤跡を歩けない箇所では、法面の低い斜面に登ったり、横切る木や竹の上を歩いて越えたりした。

 途中から、左側の法面が無くなり、竹林が続く箇所に出た。橋梁が近くなってきたと感じ、竹林の中を進むことにした。孟宗竹の林で、地元の人が筍掘りに来るのか、その残骸の穴がいくつもあった。人が来るような所なら遭難はしまいと、安心して先に進む。竹林は次第に下に降っていき、途中からは杉の木も混じり、いっそう暗さを増してきた。下がぬかるんでいる箇所に出たら、目の前の杉と竹の間から、アーチらしきものがぼんやりと見えてきた。ネットの写真とは大違いで、はるかに多くの竹が密集して、橋梁はシルエットにしか見えない。でも、菅迫橋梁に出会えた。近くに寄りたいと、ぬかるみに落ちないように用心しながら、倒木や竹の上を渡りながら進んだ。

 路盤跡の土手を発見してから3時間余りで、ようやく菅迫橋梁に対面することが出来た。真下から見上げると、他の橋梁と比べて確かに高い。孟宗竹の方が高いが、それでもあまり変わらない高さで佇んでいる。一番北側(麻生釣側)に近いアーチの斜面に竹が生えていて登りやすそうなので、竹を手掛かりに斜面を登り、橋梁の上に出た。橋梁の上は、そこが路盤跡とは想像も実感も出来ない有様であった。それでも、杉や竹の間から空が見え、橋梁の幅の分だけ空を切り取ったようであった。

 橋梁の上を北里方向に進むと、左側に保線用の避難場所が橋梁の縁から突き出しており、先には橋脚の途中に踊り場が残っていた。恐る恐る下を覗くと、踊り場には丸い穴が空いていて昇降用の梯があったのだろうが、それは確認出来なかった。それでも、全長の半分位しか歩けなかった。先の北里方向は藪の中であり、鉈か鋸持参でないと進めない気がした。

 とにかく、菅迫橋梁の存在を確認出来たことが、今回の探訪の最大で最高の成果であった。帰りは、竹林を戻り、民家の庭先を通り、林道を出た。路盤跡を逆戻りする気にはなれなかった。林道をしばらく歩くと、どうも車を停めていた方角と違うので、西寄りに方向を変え、見覚えのある風景が遠くに見え出した所から獣道を進んだ。

 30分程で路盤跡に出た。最初に法面を登って行き着いた箇所よりも200m程北東寄りで、下の方に渡った川も見え、遠くに愛車の姿も見えてきた。こんな時、曇っていてもどちらが南か感じる地理勘の良さに感謝する。道無き道を歩き続けた一日で疲れはあったが、帰る前に廣平橋梁も見ておこう。

2012年4月22日 (日)

廃線跡歩記…その十六 「国鉄宮原線橋梁群」第5章堀田橋梁

第5章 堀田橋梁

 汐井川橋梁から国道387号線に戻って、少し先の脇道に入る。この道が、旧国道である。北里川の支流である小河川沿いにしばらく進むと、雑木に囲まれた道の脇に、橋脚の跡が見えた。通り過ぎたが車を停める場所がないので、先に行ってUターンし橋脚の脇に停める。橋脚はコンクリート製で、橋桁は無い。その西側の続きにアーチ橋があった。杉林に囲まれていて、車からは見えなかったのだ。橋脚の下に道があり、道路橋を渡った先に民家が数軒あった。

 まず、橋脚の下からアーチを見上げる。かなり高い。橋脚の一部には、赤い塗料が付いていた。橋脚の下は、地元の人達の物置になっていて、雑然としていた。堀田橋梁の橋長は58.9mで、幅員3m、径間長10m4径間とコンクリート製1径間で、アーチ部の長さは46mである。完成は、1938年(昭和13年)頃である。コンクリート桁は、国道の通行空間を確保する為に撤去された。

 周囲に杉が林立している為に橋梁全体が見えないので、旧国道の先ほどUターンした所から脇道に入って、民家の軒先を進み、2径間ほど見える箇所に出た。橋梁の上に手摺が見えるが雑草が蔓延り、橋脚にも蔦草が生い茂り、薄暗い杉小立の切れ目から差し込み日光を浴びて立っている様は、天空のラピュタの世界のようだった。

 この先には、猿渡トンネルがある。国道に戻ってしばらく進むと、右側に雑木の切れ目があり、そこに猿渡トンネルの入口が静かに待っていた。トンネルの脇の壁には、昭和31年1月に防水剤を施工した旨の看板が貼ってあった。入口は封鎖されていたが、隙間から入り込む。トンネルの長さは100mもなく、少し右にカーブした先に出口の明かりが見えている。内部は明るく、内壁もきれいで防水剤の効果が顕れていた。出口に柵は無かった。竹林の中を30mほど歩くと、堀田橋梁の上に出た。橋の手前に立入禁止の役目の柵があり、雑草がからんでいて、先には行けなかった。柵の手前から橋の下を覗くと、川のせせらぎが見え、民家と川の間には甘藷でも植えているのか畑があった。

 猿渡トンネルを後戻りして国道に出て、菅迫橋梁方向を見ると、国道を渡った先の国道建設で出来た切通を割り込んで、路盤跡らしき雑木が見える。だが、雑木が密集して先には進めない。この先に、菅迫橋梁があるのだが、ここからは到底見えない。国道を戸井口集落の入口まで行って右折し、二度左折して国道を跨ぐ道を菅迫に向かう。

 林道を行きつ戻りつしたが、菅迫橋梁の場所が分からない。ガイド代わりのネット文書を何度読み返しても、手掛かりが掴めない。今回は諦めて、もう一度架橋位置図と国土地理院の地図を見て、場所に当たりを付けてから再挑戦することにする。運行当時の写真では見晴らしのいい位置にあった菅迫橋梁も、廃線から30年近く経って周囲が雑木林と化し世間から隔離されたようだ。

2012年4月17日 (火)

廃線跡歩記…その十五 「国鉄宮原線橋梁群」:第4章 堂山橋梁と汐井川橋梁

第4章 堂山橋梁と汐井川橋梁

 北里駅跡から国道387号線に戻り、豊後森方面に向かう。国道は、やがて大きく左に曲がりながら坂道を登り始める。登りきった直後の右前方が大きく開け、谷間が俯瞰できるようになる。谷間の先に、二つの橋梁が見えてくる。右側が堂山橋梁、左側が汐井川橋梁である。堂山橋梁の下を流れるのは北里川で、その源流は涌蓋山(ワイタサン)の西方山麓である。汐井川橋梁の下を流れるのは、北里川の支流である塩井川である。

 この二つの橋梁は200mと離れておらず、国道から見る二つの橋梁が並ぶ様は、杉林と棚田が醸し出す牧歌的な風景の中に、連なる二つの橋梁の上辺が作る直線が、何かの意思を持っって存在しているかの様な錯覚を起させる。

  堂山橋梁は、橋長36m、幅員3m、径間長10mの3連アーチ橋で、昭和13年(1938年)頃の完成であり、汐井川橋梁も全く同じ寸法とデザインを持つ。そう、この二つの橋梁は、真ん中のアーチの下に川が流れる双子の橋梁なのである。ただ違うのは、堂山橋梁には向って左側のアーチに道路が走っていることである。

 国道にある蕎麦屋から右に入り、集落の方に降りていくと、堂山橋梁の手前に「ほたるの里温泉」の看板がある共同浴場が見えてくる。その先の左側の路肩に車を留めると、そこに石段があり、鳥居が立っていた。熊野神社とある。石段を上り、お参りする。社の裏手に小道が続く。登っていくと、路盤跡に出た。その路盤跡を右の方に行くと、堂山橋梁の上に出る。橋梁の上には柵がしてあって、中には入れない。当然のことながら、橋梁の上を歩くことは出来ない。立入禁止の看板が、柵にかかっていた。

 今度は、反対側の汐井川橋梁に向かう。路盤跡が雑草や雑木に占領され歩けないので、一度神社に戻り、もう一方の小道を進むと、路盤跡に出た。と、その時、路辺の草むらに、先が三角形で幅が30cm、厚みが15cm、長さが1m程のコンクリート塊が見えた。落ち葉で埋もれた塊を足で向きを変えると、それは紛れも無く距離標識であった。残念ながら塗料は落ちて、肝心の数字は確認出来なかった。

 汐井川橋梁の上も柵が施してあり、立ち入ることは出来なかった。柵の隙間から入れそうだったが、柵内の路盤跡には鬱蒼とした雑草が蔓延り、入れたとしても進むのが困難と判断し、道を戻って対岸に出て路盤跡の堤を登ることにした。塩井川の西側の田んぼのあぜ道の様な狭い土手を歩き、汐井川橋梁直下の手前から堤を登る。法面の傾斜がかなりきつくジグザグに登り、路盤跡に出た。橋梁の上にしか柵は無い為、路盤跡を西に歩くと、すぐに堀田トンネルの入口に着く。ここも入口には鋼製の網が張ってあって、中には入れない。その先には、堀田橋梁がある。地図上で見当を付けて、再び国道に戻り、堀田橋梁を目指して、堀田橋梁の下を通る道路を探した。

 北里川や塩井川の両岸には、桜が多く植わっており、春には満開の桜を楽しむことが出来るだろう。訪れたのは9月中旬で、まだ紅葉には早かった。来年の春に再訪し、橋梁をバックに散りゆく桜を撮りたいと思った。(残念ながら、2012年の春には行けませんでした。)

2012年4月 9日 (月)

廃線跡歩記…その十四 「国鉄宮原線橋梁群」:第3章 北里橋梁

 北里は地名であるが、この地は偉大な細菌学の権威を輩出している。北里柴三郎の生地である。恥ずかしながら今回初めて知った次第で、その生家や北里文庫などの建物が記念館として一般公開されている。ここには、宮原線の終点である肥後小国駅の一つ手前の北里駅があり、その駅を出て直ぐに北里橋梁が築かれており、径間長10mの五連アーチの一つの下を町道が走っている。二径間が木魂館までの歩道橋として活用されている。

 橋梁は、国道387号線から分岐して北里記念館へ通ずる町道に架かっており、上を歩くことが出来る遊歩道となっている。宮原トンネルからの廃線跡ウォーキングの終着点である。途中にある北里トンネルにも、宮原トンネルと同様に照明施設がある。肥後小国駅側は木々に囲まれて見えにくい箇所もあるが、五連アーチ橋の立派な雄姿を堪能出来る。この橋梁は、国の登録有形文化財に指定されている。町道の下から橋梁を見上げると、半円形となった下側の数箇所に雨水の痕が筋となっていた。

 北里橋梁は、橋長60m、幅員3m、径間長10mの五連アーチ橋で、昭和13年(1938年)頃に完成した。橋梁のすぐ東側には北里駅跡があり、後から作られたホームに屋根を持つベンチが物悲しく訪問者を迎える。この駅は高い場所にあり、駅舎とは地下道で結ばれていたらしいが、残念ながらその痕跡は全く残っていない。高台にあるホームからは北側に集落が望め、向こう側の山の斜面に段々畑のように民家が建っている。その集落の東のはずれに、奴留湯(ヌルユ)温泉がある。宿泊施設はなく、共同浴場が一つあるだけで、所定の料金を払えば誰でも入れる。

 橋梁の下を通る道路を集落の方に降りて左手の方に行くと、北里柴三郎記念館がある。中に入ると、正面に北里文庫、その左手に貴賓館、その裏手に管理棟と土蔵があり、貴賓館の左手には池があり、その向こう側には北里柴三郎の生家が移築されている。

 記念館と廃線跡を挟んで、木魂館がある。これは、北里記念館と同じ財団法人「学びの里」が主催する宿泊研修施設で、会議室・研修室・宿泊施設があり、食と健康の交流館「北里バラン」等がある。九州ツーリズム大学や九州山の自然学校、そして小国町の農家での宿泊体験が出来る「うるるん体験」などが催されている。

 北里駅を出た列車は、同じ高さを維持しながら、大きく左に曲がりながら次の堂山橋梁に向かうが、その路盤跡は確認出来ていない。列車は、湧蓋山を右に見ながら、その山裾を寂しげに走っていたのだろう。

2012年4月 4日 (水)

廃線跡歩記…その十三 「国鉄宮原線橋梁群」 第2章 幸野川橋梁

第2章 幸野川橋梁

 肥後小国駅を出発した列車は、徐々に速度を上げて最初の橋梁を渡る。この最初の橋梁が、田原川橋梁である。この橋梁は、国道387号線と442号線が交差する手前の田原川に架かる橋梁であったが、387号線が整備される際に撤去され残っていない唯一の橋梁である。そこは、宮原トンネルに向かう上り勾配に差し掛かる箇所で、国道整備時に道路橋に取って変わった。資料はほとんどないが、完成は昭和12年(1937年)で橋長53m、幅員4.2mで、径間長10mの4連式であったというが、昭和62年(1987年)に解体された。

 宮原トンネルは、次の幸野川橋梁までの間にあり、遊歩道として整備されている。トンネル内には照明が設置されており、通る人は入口のスイッチを入れ、出口で消す必要がある。田原川橋梁跡(現在は道路橋)から国道387号線に沿って歩くと、442号線との交差点から先は右にカーブする国道と別れを告げて、真っ直ぐに登る遊歩道がある。これが路盤跡で、その先は未舗装の道となっている。歩くこと10分程で、トンネルの入口に着く。遊歩道といっても都会的に整備されていないのがいい。ある意味、自然のままである。道は舗装されておらず、轍の跡があり石ころだらけである。今回は、トンネルの照明を点けてみただけで、中は歩かなかった。次の訪問時には、廃線跡ウォーキングを楽しみたいと思う。

 j宮原トンネルは、入って直ぐに左にカーブし、途中から大きく右にカーブして、幸野川橋梁を渡る。幸野川橋梁は、橋長115.5m、幅員3.5m、径間長20mの4連の両側に10mの2連がある6連式で、昭和14年(1939年)頃の完成である。この橋梁の特徴は、橋脚上部のアーチ側壁部に菊の花びらの形をした小アーチの装飾と考えらるデザインがある事である。

 幸野川橋梁は、他の7つの橋梁との違いを持っている。構造的に径間長が20mの4連式の両側に径間長10mのアーチがある事、径間長20mの5つの橋脚の中央3つの橋脚上部に菊の花びらのデザインを持っている事である。県道や河川の幅員の関係もあったであろうし、完成が一番遅かったことでデザインを取り込む余裕もあったのだろう。

 小国の市街から387号線を通てくると、幸野川橋梁は遠くからその勇姿を見せてくれる。宮原トンネルを出ると杉木立が出迎え、橋梁の右側はその姿を全て見せているが、左端の橋脚は次の山陰に隠れている。4つの径間長20mの橋脚を眺めていると、菊の花びらが以外にも西洋風の雰囲気を醸し出している。県道と樅木川の間の河川敷に放牧されている黒牛がのんびりと草を食む姿が牧歌的であり、列車が走っていた頃と変わらぬ風景を見せている。そう今にも、オレンジ色のディーゼルカーが轟音を響かせて橋梁を渡ってくるかのようだ。

 遊歩道は、次の北里橋梁を渡って北里駅跡まで続いており、総延長は約4km程である。北里橋梁までは山間部を通り、杉木立の中の静けさを味わう事が出来る。北里トンネルを抜けると、右手に木魂館、左手に北里柴三郎記念館があり、北里橋梁を渡ると北里駅跡にはホーム跡がある。

2012年3月31日 (土)

廃線跡歩記…その十二 「国鉄宮原線橋梁群」 第1章 肥後小国駅跡と未成線跡

 国鉄宮原線は、大分県玖珠郡九重町の豊後森駅を起点として、久大本線の恵良駅から分岐し、熊本県阿蘇郡小国町の肥後小国駅を終点とする国鉄の地方交通線で、昭和12年(1937年)6月から恵良駅~宝泉寺駅が開通し、第二次大戦中に工事は一時中断したが、昭和29年(1954年)3月に再開し、翌年に肥後小国駅までの26.6kmの全線が開業したが、その後30年で廃線となった短命路線である。

 この路線の特徴は、熊本県内においてコンクリート製の橋梁が8箇所建造され、その内7箇所が現存しており、実に雄大な景観を作り出していることに尽きる。おまけに、そのコンクリートにおいては、鉄筋ではなく竹筋が使われている箇所があるという史実もある。

 又、佐賀県佐賀駅から福岡県瀬高駅、熊本県隈府(菊池)駅を経て、大分県豊後森駅まで延伸される壮大な計画があり、佐賀~瀬高間が佐賀線、瀬高~南関間が東肥鉄道として、大分県側が宮原線が開業したが、その全てが既に廃止され、肥後小国駅から菊池に至る路線跡が未成線として一部残っている事も挙げられる。今回は、肥後小国駅から豊後森駅までの一部の駅跡と7箇所の橋梁を、章を分けて探訪する。

第1章 肥後小国駅跡と未成線跡

 肥後小国駅は、宮原線の終点駅であった。昭和29年(1954年)3月15日に宝泉寺駅~当駅間が延伸され開業し、昭和59年(1984年)12月1日に廃止された。廃止時点では、単式ホーム1面1線を持つ有人駅で、終点駅であった為に機回し線と側線があった。

 駅跡の一部は、道の駅小国として整備され、建物の歩道部分に枕木が敷かれ、更に構内の片隅には、レール・駅名標・転轍機・腕木式信号機が保存されている。ホームは、道の駅から道を挟んだ菊池寄りにあって今は公園となっているが、当時の階段がその入り口として訪れる人々を暖かく迎えている。

 その公園から先もずっと遊歩道が続いており、それが未成線の跡である。この未成線跡の遊歩道は、国道212号線に突き当たり、国道の先はコンクリート製の橋を渡ってトンネルへと続く。トンネルは、ほぼ真っ直ぐで向こう側出口の光が見えているが、中は真っ暗で、その出口の光を頼りに歩いてみた。

 トンネル内はほぼ平坦であったが路盤跡は全く無く、雨水を排出する為の溝が真ん中辺りに掘られており、所々土手が崩れている。5分程でトンネルを出たが、その先は藪と化しており、路盤の痕跡は全く無かった。未成線は、橋とトンネルを作っただけで終わったようだ。トンネルの小国側入り口の前には、田畑への灌漑用水路がちょうどトンネルの上部の高さに設けられており、その古さから、このトンネルは出来はしたが使われる当てが無かった事を物語っている。

 廃線跡には兵ものどもの夢の後の感があるが、未成線には光が当たらなかった物悲しさが付きまとう。

2012年3月16日 (金)

廃線跡歩記・・・その十一 「香椎線:貨物支線」

 小学生から中学生までは自転車、高校ではバイク、大学卒業間近からは車と、乗り物に親しんできたが、今から思えば乗り物は全て中古で、一番面白い乗り物はバイクであった。高校3年間という短い時間ではあったが、バイク三昧で過してきた。バイクを乗り回していた頃には、既に蒸気機関車は姿を消しており、国鉄も赤字路線を次々に廃止していった時期であった。父の仕事柄か小さい頃から鉄道への愛着はあったが、線路から地図へと興味が移り、その地図上の場所に行く為に、自分で乗り回せるバイクに魅入られて、消えていく鉄路には執着しなかった。

 高校生当時の香椎線の貨物支線は、廃止寸前であり、既に産業界は石炭から石油に移行しており、石炭を鉄道で運ぶ事は無く、高度成長の極みである自家用車を持つ夢を実現すべく、トヨタだったかニッサンだったか覚えていないが、新車をディーラーの物流拠点へ運ぶ事が最後のお仕事であった。

 明治42年(1909年)8月1日に、酒殿~志免間の貨物支線が開業した。そして、大正4年(1915年)3月11日に、志免~旅石間が延伸開業した。それから45年後の昭和35年(1960年)12月15日に志免~旅石間が廃止され、その25年後の昭和60年(1985年)1月1日に酒殿~志免間が廃止され、76年に及ぶ貨物支線の歴史に幕が降ろされた。志免炭鉱や旅石炭鉱の石炭を香椎線を経由して西戸崎へ運ぶ路線であった。後に志免駅では筑前勝田線と短絡線が結ばれ、大谷炭鉱や宇美炭鉱の石炭も運び、博多~香椎~酒殿~志免~吉塚でデルタ線を形成し、特急客車の方向転換に利用された事もあった。

 貨物支線の起点は香椎線の酒殿駅で、香椎方面への上りホームの西側に、駅手前で分岐された路盤跡が残っている。そこには、活躍の場を失った使い古しの枕木が、その屍を晒していた。今は西口(イオン方面)が出来ているが、丁度その改札口が路盤上にあり、駅前サークルへの進入道路が線路跡である。100m程で新しく出来た町道に突き当たり、そこから先は1m程の高さで路盤跡が続いている。秋に刈り取られ短くなった雑草のあちらこちらにバラストが散らばり、非常に歩きにくい。

 県道91号線に出る手前に路盤を横切る小道があり、その左手前に踏切を明示する為に設けられたモノがった。長さ1m程の鉄板を半円形に曲げ、その内側の端と真ん中にレールを縦に溶接した手作りのモノである。道幅以上の車等が通れない様に、踏切の幅を規制するモノだったようだ。対のもう一方は残っていない。

 県道には踏切があり、右手前には遮断機か警報機が設置されていた土台のコンクリート塊が残っている。差し向いの角には、500mを示す1/2の距離標識があったが、累計距離数は判読不可であった。しばらく進むと、左側にコンクリート製の台座がある。信号交換器でもあったのだろう。そして、50m程先には後に出来た道路の為に路盤が切り通しのように無くなっており、その右側にも先程の様なコンクリート台座があった。

 100m程進むと橋台がある。当時は溝でもあったのだろうか、高さは1.5m程でガーター橋があった頃は車は通れない高さである。周りは水田なので、灌漑用水路だったかもしれないが、今は道路となっており、橋台間が3mを示す道路標識が裏返って立っている。この橋台の先には須恵川があり、鉄橋がったのだが、手前側の橋台のみが残っている。川を渡る為に左右を見渡し、近いと思った左手の橋を渡る。目の前には、志免炭鉱のボタ山が3つあるが、今や樹木が生い茂り、見た目にはボタ山とは思えない。そう言えば、昔見た頃から低くなっているみたいで、雨水で浸食された痕が至る所にある。

 須恵川を渡って、対岸の路盤跡に来た。こちら側の橋台は無く、道路が川に並行に走っている為に路盤跡も無い。10m程先からまた路盤は続くが、途中に溝を跨ぐ橋台が残っていた。土台は赤レンガ製で、その上にコンクリートで橋台が築かれ、ガーター橋を留めていたボルトが残っている。ここから先の路盤跡は、接する企業の工場の物置代わりに使われていて、上を歩く事が出来ない。端っこの隙間を歩いて、コンクリート製品工場の敷地に入る。

 工場敷地内には路盤跡は無い。社員用の駐車場や製品置き場となっていた。しばらく歩いていくと、志免炭鉱の竪坑が見えてきた。北側から見ると、下半身はスケスケで上半身は横に出っ張った奇妙な形をしている。工場の入り口付近でナフコの裏側に当たる辺りに、貨物支線の貨物志免駅があったらしいが、その痕跡は何も無い。後に、筑前勝田線の志免駅に一本化されたらしい。

 志免炭鉱の竪坑が建っている場所は、今は公園化されて、シーメイトという公共的な建物が建っている。昔は、周辺に斜坑がいくつも残っていたが、今は公園内に2箇所程保存されているだけとなっている。竪坑は高台に建っているが、貨物支線はその南側の少し下を左に曲がりながら旅石に向かう。その路盤跡を高台から見ていると、最初は道路になっている部分かと思っていた路盤跡が、実際は小さな川の手前の志免町の管理地となっている箇所を通り、やがて道路に続いていた。志免町の商店街を突き抜けた線路は、ほとんど真っすぐに伸びていたらしい。この辺は、筑前勝田線跡と同じ様な緑道として整備されている。

 やがて、左に右にゆるやかにカーブし、水戸病院下の防護壁を右に見ながら進み、旅石の貨物駅に到着する。駅跡は、住宅となっていた。線路は、途中から分岐して、西側を少し上りながらもう少し先まで延びていたらしい。当時は、炭鉱の真ん中にあった駅で、周囲には画一的な炭住がひしめき合っていたのだろうが、今は個性的な住宅に取って代わっている。

  駅の最後部から歩いて来た道を振り返ると、住宅の屋波の向こうに竪坑がニョキッと見え、ここが炭鉱の街であった事を改めて思い出させるが、住宅街との違和感は感じない。少し黒味がかったコンクリートの灰色が、その繁栄と栄華を無言の内に物語っていて、それが為に現在がある事を我々に示していると思えた。

  帰り道は、須恵高校の前を通り、新生の四つ角を下って香椎線の須恵中央駅に出て、西戸崎行きの上り列車に乗って香椎に戻った。酒殿駅を通る時には、貨物支線の分岐箇所を懐かしく眺め、後ろに遠ざかる路盤跡の彼方に夕日に映えた竪坑を見続けた。

2012年3月11日 (日)

廃線跡歩記・・・その十 「筑前勝田線」

 筑前勝田線は、旧国鉄時代に廃止された路線で、JR鹿児島本線の吉塚駅から分岐し、糟屋郡宇美町の勝田駅までを結ぶ旅客営業路線であった。吉塚駅を出てすぐに篠栗線(現福北ゆたか線)と分岐し、柚須駅(当時は柚須駅はまだ無かった)辺りまで並走し、ホームの中程から右方向にカーブして別れていた。今でも、隣接する倉庫との敷地境界が、その当時を彷彿とさせる。

 この廃線跡程、都心近くで歩ける所は無い。廃線と同時に数箇所の駅跡が公園化され、路盤跡も遊歩道化され緑道として残っているからである。この路線は、筑前参宮鉄道が敷設した路線で、1918年に末端部である宇美~勝田間が貨物線として開業し、翌年に全線が旅客営業を開始した。1942年に、九州電気軌道に合併され、1944年に国有化された。現在の香椎線の宇美駅は、博多湾鉄道の駅であり、当時勝田線とは別の会社であった為に、宇美駅は100m程離れて2つ存在した。

 国鉄になった後、宇美町から吉塚まで通学していた友達の話では、筑前勝田線で通っていて、帰りに都合の良い列車が無い時や不通の時には、鹿児島本線で香椎まで行って香椎線で宇美まで帰ったそうだ。駅は離れていても、乗降が認められていたらしい。

 吉塚駅が高架駅となり、福北ゆたか線が電化されたことで、宇美川を渡る橋梁は高架橋となったが、東側直下にあった以前の橋台は撤去されて残っていない。当初は、吉塚駅を出てすぐの踏切手前で篠栗線(当時)と勝田線は分岐して柚須駅付近まで並走していた為、橋台は複線のようになっていた。その後、勝田線の線路は新幹線の建設によって勝田線上に高架の橋脚が設けられた為に撤去されたが路盤跡は残っており、一部は保線用引込線として利用されている。この路盤跡は、柚須駅まで残されており、一部が下りホーム用線路として活用されている。

 柚須駅の南側に隣接して駐輪場があるが、ここが右にカーブして宇美駅方向に向かう勝田線の分岐上にある。駅の東側で交差する道路を横切って進んだ線路は、今では遊歩道の一部となり、数件の商業用敷地ともなっている。 

 吉塚駅の東口は、駅舎が高架化された時点ではまだ開業しておらず、一旦改札を出てから別の連絡通路を通って東側に行くようになっていた。その後、東口側の区画整理が進み、今は東口が出来ているが、県庁側の西口に比べれば質素なものである。駅の北側には貨物駅があって、その跡には病院やホテル、西鉄バスの営業所などが建っている。西鉄の市内電車が走っていた頃には、この貨物駅から石城町の博多築港まで狭軌道が市内電車の標準軌道内に敷設され、レールが3本あった。勝田炭鉱や志免炭鉱、篠栗炭鉱で掘り出された石炭を満載した貨物車をブルーの小型電気機関車が引いて築港まで往復していた。宇美炭鉱や志免炭鉱の石炭は、当時の博多湾鉄道が敷設した香椎線を使って、西院戸崎へも運ばれていた。

 現在の福北ゆたか線は、吉塚駅を出て宇美川を渡って最初の踏切がある筥松までは篠栗線の少し北側を走っており、川を渡って300m程の南側に篠栗線の橋台跡が残っている。これは、宇美川の堤防が少し高かった為に路盤が吉塚駅方向に向けて高くなって、交差する道路の線路直下は1m程低くなっていて、ガーター橋の下を潜っていた。当然のことながら、普通車しか通れなかった。路盤跡は、JR九州の事務所や駐車場となっているが、東側だけの橋台だけが残っていた。

 筥松の踏切部分は、前後の道路より1m近く高くなっており、前後の道路は4車線分の幅があるが、踏切内は2車線分しかない。道路計画では4車線道路の予定であったが、計画後30年以上経っても道路は整備されず、そのままになっている。この踏切から柚須駅側を見ると、北側に福北ゆたか線があり、南側は空き地となって路盤だけが残っている。これが勝田線の跡である。途中、新幹線の橋脚があったり、建物があったりしているが、柚須駅までは路盤が残っている。途中にある国道3号線(愛称:百年橋通り)の跨線橋の上から見ると、吉塚駅方向には新幹線の橋脚との間に保守用引込線があり、一方柚須駅方向には雑木が茂り、ガーター橋があり、福北ゆたか線の下りホームの待避線がある。

 ガーター橋は、小さな用水路にコンクリート製の橋が電化と共に作られたのだが、その南側に残っていた。篠栗線と勝田線は、碁盤の目の様な区画された所を斜めに横切って走っていた為に側道が無く、線路沿いを歩けない。かなり遠回りしないと近づけないが、用水路を渡る道路を通っている時に遠くから線路を見ると、マンションと自動車の修理工場の間に何やら赤く錆付いたものが見えた。向こう側には福北ゆたか線のレールが光っており、そのレールより少し低い位置にある。先程のコンクリート製の橋に架け替えた時に路盤を少し高くしたことでガーター橋が低くなったようだ。後戻りして、マンションの駐車場からガーター橋に近づいた。ガーター橋は、勝田線の路盤跡にあった。長さは20m程。吉塚駅側は赤く錆びていたが、柚須駅側には緑色の塗料が残っていた。ガーター橋の下には水路は無く地面が低かったので、小判型の橋台を5箇所設置し、その間に4つのガーター橋を敷設したと思われる。

 ここから柚須駅側は藪となっていたが、一部は民間に払い下げられたのか工場みたいなものが建っていた。柚須駅は中の島型のホームで、南側の待避線は丁度勝田線の跡に敷設されている。改札口は東の端にあり、停車した電車の2両目位の所から、敷地境界が右にカーブしている。線路跡には駐輪場が建っているが、その形状は三角形みたいになっており、カーブした線路跡を有効利用している。篠栗線と別れた勝田線は南下する。線路跡は、遊歩道があり、民間に払い下げられて自動車の修理工場や飲食店舗となっている。今では家や工場や倉庫が密集しているが、当時辺りは田畑だれけで、そこをのんびりと凸型機関車に引かれたブルーに白線の客車が走っていたのを思い出す。

 勝田線はここからしばらく直線となり、県道607号線(旧国道201号線)の釜屋交差点を過ぎて、九州国際テニスクラブの横を通る。このクラブの屋外コートの横辺りが御手洗駅跡である。周辺は工場や倉庫が密集した場所で、駅跡を示すものは何もない。しばらく進むと、県道551号線に突き当たる。ここまでの緑道は、カラー舗装され、植栽もきちんと刈り込まれていたが、県道の手前300m程は空き地となっており、何の整備もされていなかった。前後が綺麗に整備されているのに、なぜここだけが取り残されているのだろうか?払い下げられたのだろうか?

 県道551号線を横切ってから、緑道は左にカーブして、上亀山駅跡に近づいていく。途中、緑道に木製のアーチが設置されていた。並行して走る県道68号線沿いの店舗兼住宅の裏側であり、反対側には一般住宅がある為、プライバシー保護の観点から設けられているらしい。木材は大分朽ちてきてはいるが、造形的にはなかなかいい。上亀山駅跡は、公園となっていた。

 錦田川に大町橋が架かっているが、この橋の志免駅側は1m以上も低く段差がある。多分鉄道橋は志免駅側に下って傾斜していたのだろう。歩道橋は橋脚に継ぎ足しをして水平にし、橋脚から橋台に向けて斜面にしたようだ。川中の橋脚を見ると、コンクリートの継ぎ足しが分かる。

 新しく作られた県道24号線に行く手を遮られた。斜めに横切る緑道は、ここで断ち切られ、100m程南側の交差点を渡らなくてはならないが、その交差点名は「南里駅前」である。既に駅は無いのだが、駅前と付けられている。交差点から50mも行くと再び緑道がある。そして、そこが南里駅跡である。少し右にカーブした箇所で石造りのベンチがある。駅跡から直線で500m程行くと民家が途切れ、目指す方向にイオン福岡ルクルが見えてくる。そして、イオンの看板の先には志免炭鉱跡のシンボルである竪坑が見える。緑道は、イオンの敷地内では撤去され、駐車場の一部となっている。

 イオンの周回道路を歩いて緑道に戻り、志免駅跡に向かう。左にボタ山、正面に竪坑と、往年の姿を見ながら駅跡の公園に入る。ここは鉄道公園で、ホーム・線路・信号機・遮断機などがあり、志免駅や列車及び沿線の風景などの写真が陶板に印刷されてモニュメントとなっている。後に公園の中を県道91号線が横切ることとなり、ホームやレールは分断されている。志免町も福岡県の施策には弱い。地域の発展の為には、遺構も壊すのか。

 志免駅には香椎線の酒殿駅からの貨物支線の短絡線が入り、吉塚に運んでいた石炭を、香椎線経由で西戸崎へ運ぶようになった。又、この支線は旅石炭鉱まで延伸されていて、同じく石炭輸送に貢献した。炭鉱亡き後は、自動車輸送に貢献した。そして、駅の東側には志免炭鉱の竪坑の遺構があり、日本で3つしかない産業遺産を後世に残す運動が高まっている。

 志免駅を出た列車は、松ヶ台への登りを越え、田富駅に向かう。田富駅跡は、定かではないが、町道の跨線橋の下辺りが広くなっており、この辺かと思われる。下宇美駅に向かう途中に、起点からの距離を示す標識があった。左側の路肩に立っており、「9」の文字が左右に見える。前のキロ標識から900mの意味だが、キロを示す数値は消えてしまって判別出来なかった。

 光正寺古墳公園の手前に、志免町と宇美町の町境があり、友好のモニュメントが設置されていた。緑道は、志免町が6km、宇美町が4.6kmの全長10.6kmに及ぶ「緑の回廊都市の創造」の中核を成すものである。町界から500m程の九州縦貫道の下を潜り抜けると、下宇美駅跡に着く。ここも緑道公園となっており、ホームの一部が残されていて、その傍らに宇美町政80周年のモニュメントがある。ここまでの緑道は、カラフルな絨毯状のものが市松模様的に貼られていたが、駅跡のガソリンスタンドの裏を過ぎると途絶えている。一旦一般道の歩道に出て、宇美公園に向かう道の歩道を行かなければならない。50m程が空き地となっている。歩道沿いには樹木が植えられ、路盤跡があって、雑木林となっている。ここもなぜ緑道にしないのだろう?ここから500m程は車道になっていて、線路跡はなくなっているが、宇美公園の横断歩道を目指して進む。

 宇美公園からの歩道橋が道路の右側に降りてくる辺の少し先から、歩道が道路に沿っている川に向って下っている所があり、その先に橋が架かっている。富井手歩道橋とあり、動輪とレールが欄干にデザインされている。この橋が線路跡である。橋台は鉄道橋のものが、そのまま使われている。橋を渡って進むと、その先に小さな橋がある。これは木製で、幅は2m程だが、よく見るとその橋台は昔のままだ。JAの倉庫の横を通り抜けると、交差点に出た。交差点の向こう側に、香椎線の宇美駅があり、大きな時計付きのモニュメントが駅前広場の中心に立っている。

 この宇美駅の前の歩道上に勝田線の宇美駅があった。国交省の空中写真で見ると、香椎線の宇美駅と勝田線の宇美駅は、100m程離れていたようだ。当時は、両線の間に家が建て込んでいて、直接には見えなかったかもしれない。駅を過ぎて2つの線が繋がっていた地図を見た記憶があるが、それは両線が20mも離れていない箇所があって、測量ミスでそうなったのかもしれない。しかし、宇美駅から100m程先の線路跡にある商店は、ホーム跡のような形を土台として建っており、ひょっとすると、勝田線の駅は香椎線の宇美駅の前に移動したのかもしれない。

 四王寺坂を左に巻き込むように流れる井野川の堤防を、線路は走っていたようだ。途中に、大谷地区の案内板があり、その辺に大谷駅があったと思われる。その先に、貴船緑道公園があり、対岸との間に木製の太鼓橋が架かっていた。四王寺坂と井野川の間を走って、列車は終点の勝田駅に着く。旅客は勝田駅が終点だが、線路はその先の炭鉱まで伸びていたらしい。

 並行して走る県道68号線は、只越を越えて太宰府に向かう。県道が登りになって高くなっていく為、勝田駅は県道より低い場所にあったらしい。駅舎は、県道側にあって、反対側は炭鉱であった。今その炭鉱跡は、ゆりヶ丘の住宅地や工場団地となっている。

 地図上でも航空写真でも、この歩いてきた緑道ははっきりしており、途中未整備な所や大型商業施設の一部や道路になっている所もあるが、志免町と宇美町の行政により整備され、町民の憩いの場所として活かされている。今回の廃線跡歩き(実は2日目は自転車)では、この緑道を清掃する老人クラブの方々を数多く見かけた。このような方々の日々の努力により、緑道が守られている。途中には、竹垣のりっぱな庭園もあり、桜の木もあり、季節を問わず楽しめる緑道である。

 自宅から往復30kmの道程を、北風に舞う雪と共に走った為、明日の筋肉痛が怖い。                                                                                                                                 

2012年3月 6日 (火)

廃線跡歩記…その九 「折尾駅短絡線」

 JR九州の鹿児島本線の折尾駅は、日本で最初の立体交差駅として誕生した。鹿児島本線と筑豊本線(愛称:若松線)が交差する駅である。そして、約10年後には新しい高架駅として再生する。筑豊本線の短絡線として運用され電化と共に福北ゆたか線の愛称で親しまれている線路を、鹿児島本線と同じ高架とし、又、若松線も高架にして、地上に改札口を、階上にホームを設置し、周辺の踏切を無くし、現在の東口西口の改札口を北口南口にして、東西のバス乗り場を南北に配置する区画整理事業である。

 この工事において、現在の大正生まれの木造駅舎は取り壊され(移築の地元要望に対する答えはまだ出ていない)、新しい駅舎が建設される。これにより短絡線と鷹見口駅は無くなり、若松線と共に国道3号線の手前からトンネル(既にトンネル部は完成済)を経て、鹿児島本線の両側に入る並行したホームとなって、福北ゆたか線は鹿児島本線と並走し、若松線は廃線となっていた若松機関庫への短絡線を復活させて、若松線へつなぐことになる。

 ここで、もう一つの短絡線が登場する。折尾駅の5番ホームの東端(小倉寄り)から若松線の線路を眺めると、200m程先にバスが通る大きな踏切がある。その踏切の先に小さな踏切があり、その左側(西側)に古いコンクリート橋台が見える。その後ろには路盤跡が続いている。手前側の橋台や線路堤は撤去されて無いが、若松側の橋台は当時のままに残っている。

 この短絡線は、蒸気機関車が全盛の頃、筑豊本線の蒸気機関車の機関区が若松にあり、手前の藤ノ木駅との間に若松工場があって、鹿児島本線や支線の室木線を走る蒸気機関車は、この短絡線を通って若松工場に点検修理に向かっていたのである。今でも、折尾駅北側からこの短絡線に至る路盤跡は駐車場として活用されているが、その土地は線路特有のカーブを描いており、あたかも未来に再び活用されることを夢見て、その面影を残していたように思える。

 短絡線の上に登ってみた。現在は、付近の住民の畑に使われているが、所々にバラストが見え、枕木の破片もある。若松方向は藪と化して歩くことは出来なかったが、若松行きの列車に乗ってみると、低木と雑草が生い茂ってはいるが、路盤跡が段々と低くなっていき、若松線と並走しているのが確認出来る。

 後10年もしたら、この路盤跡を再び列車が走る。現役時は回送線だったが、今度は営業路線としての復活である。短い距離ではあるが、廃線となった線路が復活再生するのは大きな喜びである。今ある橋台が再び使われるかどうかはわからないが、昔取った杵柄が力を揮うのはロートルにとっては、この上ない嬉しさである。10年後も生きて、この目で確かめたいと思う。

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